悲劇の皇后が余生を送った尼寺の寂光院

悲劇の皇后が余生を送った尼寺の寂光院

寂光院本堂

源平の壇之浦の戦いで敗れ、入水自殺を図った建礼門院徳子が助けられ、晩年を過ごしたゆかりの寺。寺は小さくて質素で、華麗な観光地ではないが、諸行無常の雰囲気を味わうには返ってふさわしいのかもしれない。写真は以前撮影したものも交じっている。

寂光院の住所と行き方

住  所:京都市左京区大原草生町676
電話番号:075-744-3341

大原バス停から徒歩15分程度

寂光院は京都の市街地から遠く離れ、昔は隠棲の地として知られた大原の里にある。建礼門院が静かに余生を送った場所でもあり、ひなびた里との印象があるが、現在は観光地として人気が高くなり、その印象は薄れつつある。

大原までは京都駅から京都バスで約1時間。このバスは三条京阪までは繁華街を通るので、四条通りなど主要な繁華街からも乗ることができる。三条京阪からは鴨川沿いを、出町柳からは高瀬川沿いを走る。この道は若狭街道といわれた重要な道路で、京都から若狭湾の小浜まで通じている。昔この道を通り若狭湾の海産物が都に運ばれたので、鯖街道とも言われている。
地下鉄の終点国際会館駅からもバスの便はある。このルートで行くのが時間が読めて一番便利である。 国際会館駅から大原まではバスで22分である。

寂光院について

寂光院は天台宗の尼寺である。山号は清香山。寺号は玉泉寺。本尊は地蔵菩薩である。開基は聖徳太子で、用明天皇の菩提を弔うために建立されたと伝えられている。

寂光院の初代の住持は聖徳太子の御乳人であった玉照姫で、敏達13年に出家され、日本仏教最初の三比丘尼の一人とされる慧善比丘尼である。以後、代々高貴な家柄の女性が住職を務めらている。記録は失われている。

時代は飛ぶが第2代目の住職と位置付けているのは宮中で建礼門院徳子に仕えた藤原信西の息女の阿波内侍である。この女性は柴売りで有名な「 大原女」のモデルとされている。

建礼門院徳子と大原御幸

三代目の住職は建礼門院徳子である。平清盛の娘の建礼門院徳子は高倉天皇の皇后となり、安徳天皇を生むなど平家一族は栄華を極めた。しかし、源氏との戦になり、最後は壇ノ浦で滅亡した。このとき建礼門院は8歳の安徳天皇と共に入水自殺を図った 。源氏方に安徳天皇を助けるようにと指示がでていたようであるが、助け出されのは建礼門院だけであった。

その後、建礼門院は大原の里の寂光院で尼となり、平家一門と高倉・安徳両帝の菩提を弔い余生をひっそりと送られた。

文治2年には、後白河法皇が建礼門をご訪問されている。このエピソードは謡曲の大原御幸として知られている。

寂光院で侘しい生活を送っていた建礼門院徳子のもとに法皇がお忍びで訪問される。ここで徳子は栄華を極めたことから自殺のことまで仏教の六道(天上、人間(善道)・修羅、畜生、飢餓、地獄(悪道))をすべて体験したこととわが子である安徳天皇の最後を涙ながらに話され、寂れた草庵から静かに法皇を見送られた。

寂光院の建物について

寂光院は大原の山すそに建っ小さな尼寺である。豪華さはなく建礼門院徳子を偲びながら訪れる寺である。

寂光院への素朴な入口の階段。

寂光院入口
寂光院入口

山 門

階段の上には山門がある。建礼門院のエピソードを偲ばせる枯れた雰囲気のある門である。

寂光院正門
寂光院正門

本 堂

山門の中は狭い境内があり本堂が建っている。残念ながら平成の時代に火事にあい再建されたものである。少し枯れて趣きが出てきた。

本堂内に上がり、再建された本尊の六万体地蔵菩薩立像を近くから見ることができる。火災にあった以前の本尊も修理され収蔵庫で保管されている。

寂光院本堂
寂光院本堂

願いの鐘

誰でも自由に衝けるとのことである。以前の説明では諸行無常の鐘と平家物語に因んだ名称であったと記憶しているが、変えられたようである。

諸行無常の鐘楼
諸行無常の鐘楼

四方正面の池

本堂の右側に広がっている回遊式の庭園。

四方正面の池
四方正面の池

茶室(孤雲)に入る門

寂光院とあまり関係ないようであるが、気に入った。

寂光院茶室の門
寂光院茶室の門

茶室(孤雲)と前に庭

一番雰囲気のある建物である。

寂光院茶室
寂光院茶室

建礼門院徳子の草庵があった場所

メインンの境内から少し離れた場所にある。

建礼門院住居跡
建礼門院住居跡

建礼門院徳子大原西陵

寂光院の少し手前に長い階段があり、その上にある。建礼門院徳子は今も静かにこの場所で眠っている。宮内庁管轄である。

建礼門院徳子大原西陵
建礼門院徳子大原西陵